かつて羽前の尾花沢附近において、一人の土木の工夫が、道を迷うて山の奥に入り人の住みそうにもない谷底に、はからず親子三人の一家族を見たことがある。これは粗末ながら小屋を建てて住んではいたが、三人ともに丸裸であったという。
女房がひどく人を懐しがって、いろいろと工夫に向かって里の話を尋ねた。なんでもその亭主という者は、世の中に対してよほど大きな憤懣があったらしく、再び平地へは下らぬという決心をして、こんな山の中へ入ってきたのだといった。
工夫は一旦その処を立ち去ったのち、再び引き返して同じ小屋に行ってみると、女房が彼と話をしたのを責めるといって、縛り上げて折檻をしているところであったので、もう詳しい話も聞きえずに、早々に帰ってきて、その後の事は一切不明になっている。
この話は山方石之助君から十数年前に聴いた。山に住む者の無口になり、一見無愛想になってしまうことは、多くの人が知っている。必ずしも世を憤って去った者でなくとも、木曾の山奥で岩魚を釣っている親爺でも、たまたま里の人に出くわしても何の好奇心もなく見向きもせずに路を横ぎって行くことがある。文字に現わせない寂寞の威圧が、久しうして人の心理を変化せしめることは想像することができる。
そうしてこんな人にわずかな思索力、ないしはわずかな信心があれば、すなわち行者であり、或いは仙人であり得るかと思われる。また天狗と称する山の霊が眼の色怖ろしくやや気むつかしくかつ意地悪いものと考えられているのも、一部分はこの種山中の人に逢った経験が、根をなしているのかも知れぬ。
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出典:http://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52505_50610.html 山の人生 柳田国男