忌み地・忌み山の話
2017/04/04
ような気分で語り続けるスレです。
「呪わしい土地」・「腐った土地」と嫌われる土地の伝承の起因を
知り、掘り起こしていくだけの話ですが、暗い気分に浸りたい方、
鬱な方には打って付けの内容にしたいです。
実際の地名が出てきたことによる第三者の不利益が発生しても、
当方一切関知いたしません。
さあ、あなたも気が狂うワールドへ飛び込みましょう……。
・御霊の尾根(ミタマノオネ)
海澤の東側の山続き、大岳山から北へ抜けた大楢峠から城山の間にある。
山の形がイハイに似てるので位牌山とか御霊山とか呼び、非常に悪い
処だという。
この山に自害沢(ジガイサワ)と呼ぶ沢があり、その昔日本武尊が従者を
十人連れてここまで来たが、何かの理由で従者たちが自害してしまった。
又は、自害したのは旅の六部とも平家の落人ともいう。
その祟りでか、この自害沢に入って作業(山仕事)をした者は、山の中で
必ず死ぬ。それでここに入って死んだ者が出た家から位牌が出るから。
位牌指(イハイザス)とも呼ぶ。
以前、ここに従者十人の位牌が飾ってあったという。
所有者が??指(タカザス)と名を変えたが、誰も買い手がないので都に
売却し、今では奥多摩記念林の一部になっている。
海沢の北にある600余米の高さの山で、山頂近くは誰も入らないので
雑木が茂っている。
昔の野辺送りに棺の上にかざす「天蓋」そっくりの形をしている。
タツガイトとも呼ぶ人もいる。
この山は買う者、売る者、木を切る者に悪い事があるという。
上坂の人が買う算段をしていた時、三つになる子供が囲炉裏で火傷し、
経過が悪くて亡くなってしまった。
天蓋山には庚申が祀られているが、この庚申様が火傷させたのだという。
日原、川苔谷の支流、逆川の奥にある。
周囲はかなり広い手付かずの山林で、昔、ここに宿っていた法師が
命を捨てた所だとも、落人が逃げてきて首を斬られた所だともいう。
ここで一山買ってのべつに仕事をすると必ず病気に罹ったり死人を
出すという。
眼患に罹り、「銭ばかり掛かる」と言う人もいた。
町が買い上げ町有林になり、名前も(病まぬヶ沢)にしたが、誰も
山仕事に行かぬという。
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病ヶ沢(ヤマイガサワ)の川向こうにある所で、そこで炭を焼くと死ぬ
というので誰も木を切りに行かない。
太い楢がツクツクと生えていて陰気な所だという。
他にもカワナの屋敷地、または屋敷谷戸(ヤシキド)ともいう皿の割れた
物が出る場所もあり、理由は分からないが悪いところなので小屋掛けを
したり、作場をきる事はしないという。
カワナの屋敷地に小屋を掛けたら、天狗に小屋ぐるみ揺すられたので
以後は行かないという人もいる。
日原川沿いの大澤部落の山の上にあり、ここでいくら耕作しても
食えずに死ぬという。
以前、ここに金剛寺という寺があったという。個人持ちの山だが
短期間に何人もの持ち主が変わっている。
大澤地区と同じ日原川沿いの寺地地区にある。
裏手の峰畑では塔婆山(トウバヤマ)とも呼ばれ、位牌の形だ、塔婆の
形だと言ったりしている。
昔、炭焼き小屋に法印様が泊ったが、貧困に喘ぐ炭焼きが金欲しさに
殺してしまった。
あるいは栗拾いが法印をヨキ(斧)で殺したともいうが、兎に角
それ以来祟る山になったという。
大体買主に祟るが入る者にも良くない事があり、九人でそれぞれ炭を
焼いたらどの窯もみな火が消えたという。
青梅街道を奥多摩駅からダムに向かった先、境地区にある。
元は子安平(コヤスデーロ)と呼んだが、何か良くない事があり
そう呼ぶようになった。
祟り山で作場を作ったりするのを嫌う。
この付近では入ったり炭を焼くのを忌む場所は他にも多く、
それらを皆、地獄谷戸(ヂゴクト)と呼び、誰かが仕事で
怪我か死亡した場所であり、人名を冠して誰々ヂゴクと呼ぶ。
六ッ石山へ向かう途中の集落、水根にある祟り山。
昔からその山を買うと身体から首が離れるような事になる
(いわゆる斬罪、獄門首になる)といわれ、誰も買いたがらない。
新梨尾、出野萱の両方も祟り山だと言う。
御前山の北西を下るミズクボ沢がダムに流れ込む辺りをいう。
昔、伊平という炭焼きが窯に火を入れていたが、山崩れで
窯と一緒に樹の下敷きになって死んだ。それ以来ここで
木を伐ると怪我をしたり、呼んだりするので気味悪がって
山仕事をするのを嫌うという。
湖岸道路に面しており、今では林業作業車やブルドーザー
が唸りを上げて稼働している。
・倉戸(クラド)
奥多摩第2駐車場から仰ぎ見る倉戸山。その裾に当たる現在のバス停
付近は、かつて悪い事がある場所として近在に知られた祟り山である。
昔、何者かが炭焼き窯の中で死んでいた。
その霊を祀るために碑を立てたが、誰が作業をしても怪我をしたり、
火を出したりと非常に不首尾な事が起こる。
今もってジメジメした寂しい北面の山側で、もとは個人持ちの山で
幾人もの手を渡り歩いたが、最後に埼玉県入間の医師が所有した後に
都が買い上げ、公園管理団体のもとに置かれている。
倉戸山の奥手の祟りある山で、永い間に木の葉が深く積もってブクブクと
している陰気な沢である。
戦前まで此の沢で材木の太いやつ程もある蛇を見た者がいた。
また、頭が尾羽の方にも付いている山鳥が住んでいるといい、炭焼きは
入ったりするのさえ嫌がった。
ここは元の地主が祟ると言われ、ある一家が買ったところお祖母さんが
ランプを灯すのに失敗し、体に火が付いて亡くなり続いて孫も火傷で
死んだという。
人の手を渡り続け、都の所有になる前には薪炭組合の所有になっていた。
奥多摩周遊道路のダム側ゲートを過ぎて数キロ行くと交差点があり、
山の「ふるさと村」に向かう道がある。
ここよりふるさと村へ数百メートル進むと一本目の橋がある。
「北蓑橋」・・・。
この辺りは昔、糠指(ヌカザス)といい、北蓑橋の下を流れる谷を
着タ蓑戸(キタミノト)と呼んだ。
昔、ある夏の雨の降っている日、ある人がここで炭を焼いていたが、
眠り込んでしまい、着ていた蓑に火が付いて焼け死んでしまった。
それで「着タ蓑」と云う名前が付いた。
ずっと昔の事で、それ以来この山に入ったり、所有者になると必ず不幸が
あるといわれた。
蓑を焼いて死んだ人の次の持ち主は火傷で死に、
南集落(現在矢久亭のあるところ)のある人はここで狸に化かされ、
裸足で歩き回りながら死んだりしたという。
埼○銀行某支店の頭取が持っていたときは子供が次々に死亡し、支店の
経営も上手くいかず財産が1/10になってしまった。
また、ここで働かせていた林業労働者が崩落で6人死亡する事故も起き、
とうとう困り果て塔婆を建てて捨て値で売却した。
以後も人手を転々とし、最後に鳩和木材株式会社から都に買い取られ、
今では何も知らないレジャー客を呼び寄せている。
檜原村数馬の蛇の湯は?
檜原も祟り山の話は豊富です。
作物泥棒と間違えられて百姓に撲殺された貧しい哀れな武士が祟るように
なった畑の話など、山に限らず色々あります。
ですがもう少し奥多摩湖側の話が残っています。
ではまた明晩・・・
そんな濃いいところとは知りませんでした。
青梅にじーちゃんの家があるんだけど
あのへんも山だなあ こったら話聞いてみたい
北蓑橋の先、「山のふるさと村」のある辺りは岫沢(クキサワ)と呼ぶ
地区である。
実は此の場所も、以前は新発意(シンボチ)と呼ばれる祟り山であった。
新発意(シンボチ)というのは浄土真宗などでいう若年の遊行僧で、
それが何かの理由でここまで来て死んだ場所でといわれている。
雨の降る時は出てきたという話が残っており、シンボチ小僧がいるなど
と言われていた。
またここで作場を切った人が猪を追うための小屋を掛けていたが、その
猪に当たって死んでしまった事もあるという。
南地区(矢久亭や深山荘のある場所)の人が持っていたが、その家には
馬鹿(精薄)・気狂い・目ッカチ(片目)の子が生まれたり、首を振る
婆さんが出た。
それでもまだ持っていたら遂に破産してしまったと、此の付近の老人は
どこでも知っている。
「山のふるさと村」のレストハウスの直ぐ先にある沢で、昔は良い
ワサビが採れる田があった辺りだ。
他の所では絶対に見られないアヤメが咲いているので、誰かを葬って
植えたのだろうという。
今までに山仕事で二人程死んでいるほか、炭を焼くと必ず不幸がある
といい、ある人は両親と妻の三人をいち時に亡くしたという。
都民の森として整備された三頭山のどこかにある岩で、この岩の横の
窯で炭を焼くと、火の中に頭を割られた男がじっと睨んでいる。
昔長野から山梨まで種売りに来た男が、残りを桧原で捌こうとここまで
来たところ日が暮れ、炭焼き窯の側の岩で野宿をしていた。
早朝に炭焼きがやって来て、売上金欲しさに殺して窯で焼いたのだと
いわれ、ここでは炭を焼かない。
昭和の初め頃、江戸崎町松山で「良い売畑がある」と持ち掛けられた人が、
下君山の羽黒にある20ヘクタール程の桑畑を購入した。
ところがそれより、次々にその家庭に不吉な事が起き初めた。
主人が飼い馬に足を踏まれ足指を切断したり、娘が鬱病に罹り自殺未遂を
起こしたりと祿な事がない。
困った主人が近所に住む老人に洩らしたところ、意外な話をされた。
昔その畑に百姓家があり、高持ち(土地持ちの豪農)だったという。
その家敷でゴゼを泊めたところ、稼いだ銭を沢山持っていたので風呂に入れ、
湯船に漬けて殺して敷地に埋めたのだと云う話だった。
ある晩、隣の嫁がこの屋敷に風呂を貰いに行ったが、風呂の蓋を取ると
火の玉が一杯に入っていた。仰天した嫁が風呂掻き棒で思いっきり叩いた
ところ、あたり一面に火の玉が散らばり火の海になった。
恐ろしくなった嫁は夢中で逃げ帰り、布団を被って寝込んでしまった。
そんな事があって以降次々に悪い事が起き、ついに潰れた屋敷跡なのだった。
それを聞かされ驚いた主人は、地続きの家で売ってほしいと話があったのを
幸いに、大分損を承知で売り渡した。
その後、嘘のように凶事が治まり、娘の病気も治ってしまった。
ところが一方、買った家では主人が胃癌で急死。倅は若くして中風に罹り、
不幸が次々に襲ってきたという。
堪り兼ねたその家でも、小学校の移転先の用地を町が探していると聞き、
売却に成功してからは平穏無事だという。
向かう国道408号には他にこんな怪談もある。
これも昭和の初め頃の話で、小雨がしとしとと降る寂しい夕方に火の車が
現れるという話があった。
火の車は近付いてくると、側によって「乗ったか?乗ったか?」と声を掛ける。
返事をしないと何時までもまとわりついて「乗ったか?」と決して去らない。
そこで「乗ったあ!」と答えると、まっしぐらに走り去る。
行く先は多分、上君山の「いも薬師」だろうという。
※「いも薬師」は別名:「車堂」と呼ばれている。
国道に面した、雨よけのあるだけの奥行きのない木造の祠堂である。
何故「車堂」と呼ぶのかは、はっきり分からない。
え・・・。漏れの家はお宮の真ん前にあるわけだが・・・ガクガク(((゚Д゚;)))ブルブル
まぁさ、お宮から古木のある庭、稲荷にかけて時々何か通るけどさ。
火の玉とか、この世の人でない人とかさ。悪い気配しないからいいけどさ。
忌み地にご在住ですか、そうですか…
合掌。
他にあったかも。
呪術的信仰が非常に盛んに行われていた。
その面影は今では推し量るべくもないが、医療や福祉のない時代に、
救いを求める民衆に対し、多額の祈祷料を欲しいままに求める修験道の
僧達が跳梁跋扈していた。
ある者は出鱈目な祈祷や託宣で築いた財を食い物にされ、また先祖からの
土地を売り払いして祈祷に費やし、一家滅亡に至る例も珍しくなかった。
様々な人々から搾取し、隆盛を誇っていた修験道の寺院も、明治の廃仏毀釈
の折に衰退し、今ではその風潮も忘れ去られたに均しい。
ここにかつて薬師寺、地蔵院の二寺があった。
この寺は修験道の寺院で、明治維新の際に廃寺となり、その持田は民間に
払い下げられることになった。
地蔵院は持田40?f余り、地味も豊かで収穫も良かったが、なぜかこの
田を作ると凶事が起き、地元の人は誰も作る人がいなかった。
人手を巡り、多村の者なら障りなかろうと買った者がいたが、やはり凶事
に悩まされ手放したと言う。
薬師寺は持田50?fほど有り、古文書によれば旧藩士に払下げられた後に
次々と持ち主が代わり、ある家では長男・次男と続いて事故死したという。
安値に釣られて買った竜ケ崎市内の不動産屋が、たび重なる災難に困り
果て、某寺院に寄進してしまった。
県道潮来線のバス停から30?b程の所に、十三角田という田があった。
この田がなぜ忌み田になったのかは定かでない。
葬式の十三仏と田の角の合計が同じだからと言う者もあるが、理由は
はっきりしない。
この田を耕作する家には次々と凶事が発生し、永い間荒れるに任せていた。
しかし終戦後の食糧不足と米価の高騰に耐え切れず、この田を耕作する
人があった。
この家では間もなく、倅が土方仕事に出てガケ崩れで生き埋めになり死亡。
親父は急に田を手放したくなり、他の人に貸して作らせたら今度はその家
で主人が胃ガンで死亡。家族にも次々と病人が絶えないので遂に放棄した。
荒れ果てていたが耕地整理が進み、今ではどの辺にあったかも判明できなく
なり、地主が元の場所あたりを配分され引き受けた。
地形が変わったためか、今では無事だと言う。
芝崎の水道という所に、約1?f程の田があった。
形が出刃包丁に似ていると言うので「出刃田」と呼ばれ、ここの田を耕作
すると災難が来ると恐れられていた。
これまで何人となく作る人がいたがすぐに止めてしまい、荒れるに任せて
いた。
昭和十年頃、河内町下加納の人が作ったところ、間もなく火災に遭って
自宅を全焼してしまった。
現在は農地構造改善事業によって所在不明となった。
承応三年、常陸川筋の河道が整備され、利根川の東移が実現したが、
この成功により幕府は、関東郡代・伊奈半次郎、大目付・高木伊勢守に
命じ、延長約三五キロメートルの新利根川が開発が始まった。
数万ヘクタールの新田開発のため、利根川の水流を利根町で締切り、
新たに流路を北に替えたのである。しかしこの新川は勾配が急であった
ため、沿岸の村々の大水害を招いてしまった。
このため利根町押付から東村押堀に至る新堀堀削工事する事になり、
寛文三年、大阪の豪商・河内屋治兵衛、並びに京都の豪商・伏見屋が
工事の請負に当たる事となった。
南堤側の普請、伏見屋は工事が順調に進んだが、北堤を請け負った
河内屋は、草が枯れて出来た特有の「ケド土」という土層に突当たり、
あらゆる工法を用いても一夜で跡形もなく堤が流されてしまった。
迫る工期、資金の欠乏。重なる心労の末、河内屋は現在の新利根町
曽根付近に建てた仮小屋の中で、無念の最後を遂げたという。
その後、この河内屋堤の後は田となったが、耕作すると祟りがあると
怖れられ、貧しさに手を出す農家も永くは作ろうとしなかった。
堀川地区に終戦間もない頃、河内屋堤の跡を耕していた家があった。
ある日、父と息子が口論となり、息子が出刃包丁で父を刺し殺す事件が
発生した。この家は現在絶えて、家族の所在を知る者はいない。
この他にも耕している家があったが、余り良い話は聞かないと言う。
いま河内屋の墓地は、新利根町曽根の村道にヒッソリ建っている。
風水はもともと中国古来の仙道五術の奥義です。
この奥義は森羅万象の過去から未来に至るまでを判断し、運を切り開いていくのに
風水羅盤を用いて、王や帝王とその国家の安泰の為に使われていました。
はじめのうちは、国を守る為に主に軍策として利用されていました。
攻め入る軍はどこに陣をおけば効率が良いか、どこから攻めていけばよいか、
またどこに城を築けば攻められにくいかなどを地理・方位などから判断していたのです。
国が安泰となってからは軍策だけでなく、このノウハウを使って、
繁栄する都・国作りに応用され、次第にこの奥義の一端が庶民にまで広がり、
家相や、個人の生まれた時間を元に個人の吉凶を判断するものとなっていったのです。
日本では、最近流行っている「陰陽師」がこの風水の奥義を会得しました。
陰陽師は、中国から伝来してきたこの奥義を踏まえ、暦を読み、国の祭事を司り、
風水に基づいた都作りをしていました。
陰陽師は国の重要な地位を確立し発言そのものが国を左右していたのです。
ちなみに陰陽師は「国家公務員」でした。
平安京の碁盤の目のように整然としている都は、完璧に風水に基づき
作られているのは有名です。
日本の歴史に風水が登場しているのは古く、邪馬台国の頃からと唱えている
歴史学者もいるようですが、この辺は定かではありません。
定説では平安時代の頃と考えられています。
諸葛孔明(しょかつこうめい)は希代の風水師で、軍師となれば戦に勝ち、
国主となれば国を適切な方向へ指導していきました。
日本では、徳川家康が博学で薬学などにも秀でていました。
そして、京から江戸に遷都した際、風水の教えに基づき都を作りました。
実際江戸城(現皇居)は風水上では理想の場所にあります。
また、家康が亡くなって日光東照宮にお祀りされていますが、
ここも風水上大変パワーの流れている場所に位置しています。
江戸幕府が300年の長きに渡って安泰に続いたのも、
同じく平安京が長く続いたのもこのような風水の良い影響があったからとされています。
昔、京塚という小さな塚があった。その一帯は京塚という地名である。
外部から移り住んだ者が、いつの間にか平らに均して屋敷にして
使用していたが、娘が若くして癌で死亡したり凶事が続いたという。
弁天堂の持田で弁天田というのがあった。作ると病気や怪我が
絶えないといわれていた。現在、耕地整理で消滅した。
旧阿波街道の道路沿い、窪地で昔から耕作すると災難があると言われて
いた。地主が数10年前まで作っていたが、現在は休耕となって篠が
生えて放置されている。
国道294号、釜井駅バス停付近に昔、薬師堂が建っていた。
免地30?eが民間に払い下げになったが、病人が出ると言われて
荒れていた。現在、国道用地と住宅地になっている。
ここに塔婆の形をした田が5枚続いてあり、塔婆田と呼ばれていた。
この田を作ると祟りのために家から病人・気狂いが出ると言われ、
誰も耕さず荒れていた。現在は耕地整理で均されて消えた。
万願寺下に女郎塚という小さな塚があった。女郎田と呼ばれ、ここを
耕作すると悪い事が続いて発生し、誰も作らなくなった。
墓場田と呼ばれ、元は墓地であったが改葬されて田にした場所で、
深く掘ると人骨が出ると言われている。
ここも作ると怪我や病人が絶えず、永く作ろうとする者はなかった。
昔、雪の降った翌朝、一人の女が行き倒れになって凍死していた。
ここの田を夜通るとお化けが出ると言いい、子供は夜になると通ら
なかった。
四枚で20?e程の田で、首切田と呼ばれている田がある。
昔、日照り続きで凶作に喘いだ時に、隣りの田の持ち主と水を盗んだ
盗まないで争いになり、持っていた鎌で相手を斬り殺してしまった。
その後、その田は祟りで災いが起きると言われ荒れ果て、水が溜まって
池のようになっている。
明治の廃仏令で無住のまま立ち腐れになった廃寺跡で、50?e程の
宅地であるが、しばらく身寄りのない老人が一人で生活していた。
老衰で死んだ後は村で無縁仏として埋葬した。
その後、誰もここに手を付ける者はいなかったが、作業小屋を建てて
利用した人が子供を癌で亡くし、続いて妻が自動車事故で亡くなるなど
悲劇が絶えなかった。
この家では年に何回か土地の供養を行っている
鹿島神社の近くの三又に道祖神の石祠があり、(やしんほ道祖神)と
呼ばれている。
(やしんほ)とはいやしん坊の事で、何でも欲しがるという意味である。
酒を供えて願を掛ければ利益あるというが、たとえ篠竹一本でも取ると
祟りがあるということで荒れ放題であった。
特別信仰の厚い人が供養の上、清掃して綺麗にした。
底なし田。これは元、東光寺の免田であったという。
底知れずの深い田で、怖れて耕作する者がいなかった。
ある家で作ったが、妻は病気がちで夫は働かなくなり、家庭不和で
若くして夫婦とも病気で亡くなった。
愛戸に昔、般若院の病人田と呼ばれる、真中に松の木が生えている
田があった。
一年中陰湿で下草は茂り放題。白い蛇が出るといって近寄る人がなかった。
ここを作った家では気狂いが出たり、病人が絶えなかった。
少年時代の一時期を龍ヶ崎で過ごした者(非地元民)です。
今から20年ほど前、とある習い事の教室で親しくなった他の小学校の子
の家へ遊びに行くことになりました。彼はあまり乗り気ではなく、私が
しつこく「ミヤマクワガタが捕れる秘密の場所を教えろ」と頼んだため
折れたような格好です。
R経済大学の傍を通って山の方へ自転車で進むこと20~30分、隠れ里の
ような所が彼の住む集落でした。欝蒼と木々が生い茂り、独特の雰囲気
だったと記憶しています。ゴルフ場が近くにあったような気もします。
それから暫くその近辺でクワガタ探しをしていたのですが、地元の少年
の集団に見つかったところ…半ば強制的に僕1人が帰らされました。
なぜここへ(他所者が)来たんだ、と言わんばかりの勢いで。
忌み地とは直接関係ないかもしれませんが、あの独特の排他的な
雰囲気が何に由来するものなのか未だに気になります。
できたら阿見・美浦方面の話もきぼんです。
>84 オレもその集落に逝った事があるが、
迷子になってしまったよ。暗くなると怖い所だよ。
横レスですが
小学校ぐらいの子供は仲のいいグループで
ひみつの場所を作る場合があります
そういう場所は、通常、そのグループだけの秘密の縄張りであり
他グループの子供や、よそもの、女子などが入ることは極端に嫌われます
そういう私は県南のT市出身です
私も子供の頃はよくひみつきちを作りました
余談ですが、市内の「自然賞作文コンクール」かなんかで
「ひみつば」とか「ひみつきち」のような作文が時々入選していたようなので
そういうものを調べると、詳しい状況が解るかもしれません
帰らされた場所がクワガタの捕れそうな「秘密の場所」の近くだったら
不思議はありませんが、移動途中の路上での出来事だったと記憶して
います。このとき、彼が私の来訪を渋っていた理由が「よそ者を集落内
に入れるな」ということだったのかな、と感じました。
そもそも龍ヶ崎は閉鎖的な土地柄で、よそ者扱いされるのには慣れっこ
な私でしたが、その一件だけは妙に記憶に残っています。
亀レスだけどゴルフ場は、貝原塚ってゆうところに今も存在します。
あとオレンジ色のジャージはおそらく八原小学校だと思う。俺も八原出身
だけどオレンジのジャージ着てた。今はジャージ違うタイプになったみたいだけど
病人田と呼ばれる田が白鷲団地の方にあって、深い田の真中で女の笠だけが
浮いていた。
笠を被っていた女が、田植えの最中沈んでしまったといい、この田を買うと
悪い事があるという。
羽根野と早尾の間に城山という寂しいところがある。
昔、喧嘩で誰かが殺された所だという。
景気の良い人が買ったところ、良くない事が起きたという。
また、切腹山という場所もあり、武士が10人余り自害した所だといい、
ここを持つとやはり良くないという。
羽黒町から利根町の羽根野にいく道は、昔は昼でも寂しい所だった。
羽黒には大きな木と石を祀った神様があり、誰もさわらない。
やれば必ず病気になると言われ、周りが宅地化された今でもそこだけ
残っている。
土建業者もよく知っているので、ここは手を付けない。
首切り田というのが長沖町のシンタクの田にある。
長沖町の幼稚園の先の辺りだといい、昔は畑で首切り畑と呼んだが
元は処刑場(首切り場)だという。
昭和10年に耕地整理の際、そこを田にして作った人が1年で死んだ
という。
その他、長沖には位牌田といい、寺の持田だった田が2~3ヶ所ある。
城山から利根町奥山の観音様に抜ける道は、上がり坂で馬坂と呼んだ。
現在の龍ヶ崎潮来線の一部であるが、その近くに城根と呼ぶ場所がある。
昔、龍ヶ崎城と奥山城の戦いがあり、奥山城主敗退の際に流れ矢を受け
死んだ場所だといい、作った人は必ず田の中で死ぬという。
現在は龍ヶ崎二高の一部になっている。
西道内に稲荷のある篠藪があり、女が夜通ったところ、人の首だけが
出たという。
代官畑というのが下町の南にある。
旧幕時代、代官の次男がその畑で働いていた娘に言い寄ったが、
拒まれて恨みに思い、罪に落とし入れた上に虐殺してこの畑に埋めた
という。ここを耕作すると不幸になると言われている。
父親の代官も暴政を振るった者で、訴えに来た村民を投獄しては獄死
させたという。
鏡田という2?e程の田が、上町と下町の境にあった。
色々言われているが、大体次の2通りの話がある。
○昔、ここの農家に非常に顔の醜い娘がいた。家人は娘に鏡を見せずに
暮らしていたが、ある日田に映った自分の顔を見て驚き悲嘆し、田に
落ちて死んだとも、自殺したともいわれている。
○並木の所に店があり、下女に顔の醜いタケという女がいた。
毎日田んぼで化粧をしていたが、ある時主人に(悪戯か、故意か)
後から押され、田に落ちて気絶して死んだという。
この田を作ると凶事が起きると言われていたが、戦後ある菓子メーカーが
付近一帯と共に購入、工場を建てた。
当初は経営が上手くいったが、何年も経たずに倒産してしまった。
近所の人は、やはり良いことがなかったと話したという。
現在は幼稚園になった。
昔、ここの内野という所に、祟りがあると嫌われる病人田があった。
(アヒル小屋)と言われてアヒルを飼っている家があり、そこの者が
耕作したところ病人や怪我人が絶えず、困り果てて作るのを止めた。
農地構造改善事業で今はない。
昔、根町の般若院がここの篠藪で覆われた荒れ野にあったと言われ、
大きな塚が寺領の片隅にあったという。
般若経をこの塚に埋めた場所で、祟りのあるとする藪畳だった。
龍ヶ崎ニュータウンとして宅地開発され、消滅した。
発掘をした担当者が事故で怪我をしたという。
また、ニュータウン用地となった場所には念仏塚という塚もあり、
経石が籠一杯出たが、掘った者に不幸が起きて又埋め戻したと言う。
なんかオカルトつーより政治的なものを感じる……
こえーべよ
自分でも調べて見たいのですが、どうやって調べるのですか?
図書館で民俗学や伝承文献の本を見ればいいいのでしょうか?
龍ケ崎市史民俗調査資料書(龍ケ崎市発行)という本がある。
現在のところ4部あり、上記の市内の伝承を大半は記述されている。
ただし老人の語り草をそのまま記述してあり、訛りを解釈できないと
大変読み辛い文章である。その他、幅広いジャンルの龍ヶ崎の民俗が網羅されており、
その分野に興味ある人にとっては貴重な文献と言える。
もちろん図書館に蔵書されてある。ただし貸出禁だ。
堀田と呼ばれていた地区に、江戸時代の総代名主の屋敷跡があった。
御白州もあり、罪人の仕置きも行われた場所で、昔は蔵からお化けが
出るとか女の泣き叫ぶ声がするという噂もあった。
近辺住民の子供らなど、夜は恐怖していたらしい。
ある家で次男が分家の際、この跡地の一部を買って家を建てた。
すると夜は夢の中に恐ろしい姿の人や光景が出て悩まされ、とうとう
精神を患い入院してしまった。
人に勧められ、お寺で供養してもらってからは平穏無事であるという。
かろうど畑という畑が鹿島神社近くにある。
この地域の人などによく知られた祟りある畑で、昭和50年頃までは
一人暮らしの老人が野菜を作っていたが現在は荒れている。
付近の人は貰ってもいらないと忌み嫌われている畑で、幾人もの
人を不遇な目に遭わせてきた話がある折り紙つきの因縁畑である。
「かろうど」とは唐棺の事だと指摘する人もあり、昔は古墳があったと
いわれている。
以前まで畑の中に藁で出来た粗末な祠があったらしい。
小野川の土堤に近い場所に薬師様の田というのがある。
以前ここに薬師堂があり、地元では祟りがあるとの事で誰も作らなかった。
20年程前、龍ヶ崎市大塚町の青年たちが何かの資金稼ぎの為に共同で
作り始めたが、先立った者が何人か死ぬという事故が起き、そのまま
耕作を止めてしまったという。
ここにも薬師様の田んぼといわれる田がある。
大羽谷津の松原近くにあり、この田に入るとデキ物が出来るといって
タニシ取りになど行かなかった。(利根流域は住血吸虫の害があった)
この近くには昔化け物がよく出たといい、ある人が刀で斬ると消えて
しまった。
血が流れていたので跡を着けてここまで来ると、古道具を埋めた所だった。
掘ったら刀傷のある箪笥が出てきたという。
出典:http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/min/1062292997/