何本もの手が窓枠から突き出されていた
2017/04/29
嫌いではないが、積極的に雪山を目指そうという気にはならないという
程度に、雪山は好きではない。
行き先が雪崩の多発地帯ともなれば、なおさらだ。
それでも、雪山は美しい。
ただの雪山歩きなら、決してそんな場所へは行かない。
その時はメンバーの一人に仕事上の都合があり、そのために企画された
雪山登山だった。
多少のあれこれがあり、結局、参加することにはなったが、腰まで
雪に潜り、足元の見えない斜面を歩く体験というのは、個人的には
あまり好ましいものではなかった。
地面は岩で、足首は安定せず、さんざん歩き、疲れ、振り返れば
進んだ距離はあまりに短かった。
谷を挟んだ反対側の斜面では、かつて、泡と呼ばれる大規模な雪崩があり
衝撃波で、冬季用の小屋が滞在者もろとも、ほとんど丸ごと吹き飛ばされ、
数百メートルも離れたところから残骸や遺体が発見されたことがある。
こちら側の斜面で、それほどの雪崩は発生していないが、泡だろうと
何だろうと、衝撃波で吹き飛ばされようと、雪に巻き込まれて谷底まで
押し流されようと、こんな場所で雪崩に遭えば死ぬ他ない。
幸い、ここ数日は雪が降っていないらしい。
そして、暴力的なまでの低温。
これなら雪崩の心配はないなどと言う奴が居ても、それを素直に
喜べるだろうか。
雪崩ではなく、疲労と低温による遭難だって数多い。
二度と、こんな場所へ来るもんかと思った瞬間、衝撃波が背後から来た。
音は一瞬遅れた。
とっさに姿勢を低くし、最初に触れた地面の突起を握りしめたが、
衝撃波に弾かれて体勢が崩れただけのことだ。
自分の意思で伏せるほどの時間はなかった。
よせばいいのに、と自分で思いながら振り返ると、後方、反対側の斜面が
真っ白なガスにでも包まれているように見える。
無論、ガスではなく雪煙だ。
真っ白で柔らかそうな雪の塊は、斜面に留まることなく、大きく膨らみながら
速度を上げ、谷底目掛けて崩れ落ちた。
谷底からは粉々になった雪が吹き上がり、突き刺さるように殺到してきた。
鼓膜に、じかに雪の粒があたる音さえ聞こえた。
目を開けることなど、無論できない。
衝撃が行き過ぎ、荒っぽい落ち着きを谷が取り戻すと、こだまが谷を揺らした。
木霊とはよく言ったものだと、そんな時に妙なことを考えていた。
顔を上げると、こちら側の斜面の木々の枝からは雪が失われていた。
角材で四角に組まれ、十字に区切られた窓枠に、ガラスはない。
ガラスはないが、手はあった。
何本もの手が、窓枠から突き出されていた。
木霊が消え残る中、無言で、マネキンのように硬直した手が伸べられている
その光景は、今にして思えば、芸術の一形態のようでもあった。
さらさらと木から雪が舞い落ち、それに気を取られた。
気付くと窓枠は消えていた。
窓枠のあった場所さえ、すでに分からない。
きっと、今の衝撃波で、こちらの斜面の雪がゆるんだはずだ。
全員、誰に言われるでもなく、それが雪崩の原因となることを知っていた。
窓枠についてあれこれ思い巡らす暇さえない。
慌しく手を合わせる俺を、パーティのメンバーが見つめていた。
「なあ、頼むよ」
聞き覚えのない声が耳元でしたが、何を頼まれたのか今でも分からない。
とにかく、雪崩の多発地帯になど、二度と行くものか。