忌み地・忌み山の話
2017/04/04
スイカを作ってはいけない、とかいう迷信があった。
作ると祟りがあるらしい。
龍ヶ崎市立野地区の情報くれー
鎌倉の由比ヶ浜って昔、処刑した囚人の埋葬地だったんですよね。
そう、処刑場や古戦場跡地みたいな場所は祟地多いですね。
なんか京都や奈良方面にはもっと多くの埋もれた話がありそう。
大量の人骨が出てきたらしいが、あの話はどうなったのかな?
京都の山科区には、御陵血洗町なんて、怖い町名があります。
「忌」とは関係ないけど、滋賀県の栗東か草津には、伊勢落野神
という地名があります。お伊勢さんから落ちてきた神様が、平家
よろしく落人部落の様に、住み着いた土地って事でしょうかね?
もと墓地の跡と言われている。この土地は昔より持つと所有者に
悪い事があり、長く持っていた人がいない。
今もいる人で若い嫁を亡くし、その前に住んでいた人は子供が
みんな亡くなってしまった。それ以前は寺方の持ちものだったという。
またある某家では先祖が請け負った仕置き場があり、そのための小屋が
あった跡が悪いという。
土地が安いので、知らぬ人はみな買うのだという。
とちのき公園は以前、栃ノ木谷戸と呼ばれる魔所であった。
事故の多い場所で、以前ここに栃○という家があったが絶えてしまい、
その跡地を買うと良くないと言われていた。
厳耕地(ゲンゴウジ)という広い農地があった。
ここに佐五右衛門という男が屋敷を構えていたが、ある時ゲンゴウという
法印が訪ねて来、理屈を並べて泊り込み、そのまま居付いてしまった。
そのうち佐五右衛門の女房と良い仲になり、主人に酒を飲ませて井戸に
放り込み殺してしまった。
その後二人は磔にされ、死体は同じ井戸に放り込まれた。
跡地は畑になり、安く売りに出ていたが、町田市小山田の某氏が
所有者になったところ、悪い事が続くので石碑を建てたという。
後に整地された。大○証券多摩総合研修センターの辺りだったという。
相原町との境付近で、町田街道より百メートルぐらい登った丘の上に
台地状の畑地がある。
昔大きい屋敷があり、栄えていたが何かの理由で滅亡してしまった。
他所から来た者がこの土地を手に入れたが、忽ち災難が相続き、占者に
観て貰ったところ、敷地内の石の祟りだと言われた。
家も全て取り払われたが、この石だけは今も畑の中にあるという。
昔、ここに(勘松の田地)という耕地があった。
山崎勘松という眼病で失明した者がいたが、親より与えられた田畑と
財産を兄に奪われたのを契機に諍いが起こり、兄の逆恨みから謀られ、
検校への道も閉ざされてしまった。
勘松も素行の悪い者であったが、村中を怒り喚きながら最後は自宅で
縊死してしまった。
その後兄の一家8名が次々に急死し、勘松の田地は怖れて誰も手を出す
ものはいなかった。
近年になって、○中○四郎という人が理由あってここを買い取ったところ、
たちまち重病に罹り、子供らと協議の上、上小山田の養樹院に納めて
勘松の供養をしたところ、全快したという。
日向根トンネル(日向根隧道)の付近を崖根(ママネ)と呼び、昔より
怪しい事が多い場所だといわれてる。
隧道ができる以前は、今より雑木が繁茂する暗い崖地で、中世の横穴墓
などが発掘されたりしていた。
境川に面した日向根部落のある老女が、近在の法事に出た晩にここを
通りかかると、背後で大勢の男の声が聞こえたという。
ここに「ナンジャモンジャ」と呼ばれる樹があり、区画整理の工事で
伐ったところ、木の根が数枚の板碑を抱えていたといい、地域の有志が
堂を建てて合祀してある。
神奈川県川崎市多摩区の長沢の北にあった高さ100 m、広さ300 ?uほどの
丘陵で、普段人が入って木を伐ったりすると、怪我したり死んだり、気が
狂ったりすると言われていた。
以前は大きな樹が茂っており、トオノコシ谷戸(平瀬川付近)の庚申講
の持山であったが、一度国有地となり、民間に売りに出されたが買い手が
付かなかった。(今ではマンションや住宅が犇めいている)
明治の中頃まで同族で構成された庚申講による一党祭祀が続き、8年から
10年に一度取り行われる祭りの時にだけ入山したという。
川崎市多摩区生田にある川崎市水道局生田浄水場散策道のことであり、
こんもり木の茂った陰気な手付かずの森である。
第六天の祠があったといい、土地に昔から住む人は立ち入らなかった。
浄水場建設の際、怪我人が多数出たという。
川崎市柿生区万福寺。 博打打ちが仲間に斬り殺されたためになった山だ
といい。持てば持ち主に祟るという。
柳田によれば、ケヤマのケは(物の怪)のケというが、ここでは穢れた
場を意味する。
川崎市柿生区金程。 ここも公園化されている。「あの山はクセが悪い」
などといい、誰も買うのを嫌ったためという。
東京都稲城市。これは東京都だが、裏手の川崎市柿生区細山と山続き
なので加えさせてもらう。
東京○みうりカントリークラブ付近にあったと思われ、山仕事の人が
怪我をしたり、死んだりした山だという。
入る事を忌む山や畑が多い。
これは昔、その地で殺人などが行われ、その殺された人の魂が呪って
いるためだと信じられており、そこに立ち入った者には不幸が招来する
と伝えられている。
静岡方面でも忌み山を(ケヤマ)と呼ぶ地域があるが、どう言語が
伝播して来たかなどは、ブクタには知る由もない。
・東秩父村坂本栗和田
栗和田地区近くに「リュウホウの山」、あるいは「リュウホウ院の山」
と呼ばれる山がある。
これも付近ではよく知られた「ケヤマ」の一つで、その昔山中に「リュウ
ホウ院」という寺があり、この寺のあった場所の木を伐った者には祟りが
あると伝えられ、今も所有者になると必ず家に祟りがあるとされている。
この地域には、豊臣の関東攻略の果てに落城した松山城の上田家の家臣を
先祖にもつ家もあり、氏神として八代竜王を祀る家が数軒ある。
「リュウホウ院」と関係があるかは聞かないが、上田家所縁の日蓮宗系の
寺院にありがちな山号ではある。
栗和田付近は県道11号線から秩父高原牧場に上って行く途中の閉鎖的な
感じの集落で、明るく開けた山上の牧場とギャップがある。
依田原新橋の東外れ、和田川の西側の土手を南へ一町ばかり行った所に、
幅一間ばかりの川がある。土橋が掛けてあり、ここを「お園水道」という。
昔、お園という芸者がこの川に入って死んだという。そして、ここに
住む者は決して成功しないという。
ある人は御稲荷様まで祀ってお祓いをしたけれども、やはり思わしくなく
余所へ移ってしまった。今もその御稲荷様は、古びたまま残っている。
「吉塚」姑があって、嫁を酷使し一人でここの田の植え付けをさせた。
嫁は植え付けが終わると死んでしまった。そこで、この塚ができた。
この田を耕す者は、必ず家内の死者を出すということである。それは
死んだ嫁の祟りであるとされる。今となっては作る者もなく、また
ここを買う者もいない。
現在はないのでは?見かけた記憶がないです。
白羽村字小杉原に、千人塚がある。その上に松が植わっていて、
椀貸せ松という。この松を切ると血を出すと言って、手をつける者は
いなかったが、明治20年の頃に切って畑と成し、今は跡さえもない。
この松を切った者は、当時富裕の資産家であったが、今は全く零落して
家屋敷も留めていない。一家は死んだ者あり、病んだ者あり、全く離散
してしまった。松の祟りではないかと言われている。
松を直接切ろうとした人夫も、枝打ちに上ったところ、過って墜落し
腸を出して死んだという。
護良親王の首を、内裏山に納め奉る。今もなお、五輪の陵墓がある。
現在F氏の所有する土地である。同氏は近年ここの発掘に努めているの
だけれども、途中まで掘ると異様な物音が生じ、めまいがして、
どうしても掘り出すことができないということである。
菊の御紋章が付いた位牌とか、刀鏡などは採掘したとのこと。
障子山(難山?)と云う山には、現在は埋まってしまったが、
障子山という人が戦の時に隠れたという穴があった。
この山は木が大きくなったのだが、買う人がない。
この山の木を切った家には災難があり、家にない場合には木を積んだ船に
悪いことがあると言われている。
なお、前述の穴に白旗が立っているのを見た人は、3年以内に死ぬと
言われている。
淀師に、「やみた」という田があり、作ると必ずその家の誰かが病気になる。
昔、殿様がここに深い池のような牢を造って、罪人を生殺しにした所だというが、
確かなことは分からない。
「やみ田」は、集落に必ず一つ二つはある。この田には、石で造った小さな
祠のような物が祀ってあるので、すぐ分かる。この田を作ったり、また
作ると約束しただけでも、死ぬか非常に重い病に悩まされるので、嫌われている。
2ヶ月前にも「やみ田」を作ると約束した人が亡くなったので、
祟りだと言って村では益々嫌っている。
昔、八幡神社があった所で、現在は帝室林野局出張所の屋敷になっている
敷地内の、大きな石が二つあった。その石が目障りなので、埋めてしまいたいと
所長が言ったのだが、恐ろしがって埋めようと言う者がいない。結局、小使が
やることになった。
しかし、穴が掘り上がろうという頃に、石が穴に転がり込み、小使は石の
下敷きになった。穴から救い出されたが、まもなく死んだ。彼の息子の話によると、
穴が石に近すぎたために転がりこんだのではなく、石は外にあった時のままの
状態で穴に入っており、上部を少し土の上に出していたという。
林野局の官舎を建てた時、請け負った親方連中が、その後まもなく
病気になった者が多かったので、地元では恐れていたということである。
現在、どうなっているか不明。
賀茂郡下河津村(現在の河津町)
ころ柿山には、その名の如く幾百年経ったか分からないくらいの、
ころ柿の木がある。その年、柿がたくさん成り、村では男も女も皆で採りに行った。
男が木に登って柿を採り、女は下で落としてくれとせがんでいた。が、
ふとした拍子に一人の女が木に触れると突然、木が女をくるっと巻き込んでしまった。
今でも、巻くから、と言って女をその木に近づけない。
富士郡芝富村(現在の芝川町)
長貫では、以前から正月にどんど焼きをしない。
昔、どんど焼きをしていると白鳥山から白坊主が
「ほーいほーい」
としきりに呼ぶので、気味悪くなって止めてしまった。
翌年にまた、どんど焼きを始めると同じように呼ぶ。
それ以来、この行事は止めてしまうことにした。
芝川町役場の辺りの話。白鳥山は、山梨県南部町?富沢町?との境にある山。標高567m。
私のネタは以上です。連続カキコにて失礼しました。
かなりいわくつきの土地ときくが、単なるオカルトネタなのかな
淡水域に決して住むはずのない魚類の名前を冠した
山名地名がある。オカルト...とは言わないが、俺にとって
は、不思議でそそらえるんですが。フタグンさん。
そういう地名は、
元来は違う字で記してたんだけど、いつのまにか
よく使う漢字で書くようになっちゃいましたーという
パターンの場合があります。
いや、何か謂われがある場合もあるんでしょうが・・・
魚に関連した山名について、鯵は知りませんが
鯖(サバ)・・・サブ、サヒに通じる。「鉄分を含む地」の意。
鰈(カレイ)・・・カレ、ガレに通じる。「崩れ」のある地。
という説もあります。一説ですが、ご参考までに。
陰毛のたとえだから何なのか。不浄の地ということ?
自分のところが忌み地だなんて初めて知った。
確かに、「宮ノ前」と呼ばれている地域があった。神社の前に。
だけどそこは大地主だったけどなあ。
一説ですが、お金持ちの家を周辺の人達が妬んで、
悪い噂を立てることもありますよ。
ちょっと例が違うけれど、クダ憑きとか六部殺しとか。
「あそこの家はこーんな悪い事してお金持ちになってるけど、
ホントは祟られてるんだぁ」みたいな。
ま、参考までに。
被差別部落の象徴?ともされる○○神社があるんだけどね、そこ。
でも、いわゆる同和地区とは違うん印象がある。
江戸の昔は知らないが、大体は土地持ちの農家で二階建ては当たり前、
車も二台ぐらいもっている家が多くて。ただ、農業地区としては、広い水田が作れないので
そう豊かではないと思われたが。
印象としては、尾根と谷が入り組んだ中で、一番の窪地で、
森がうっそうと生い茂り、夜には肝試しにうってつけ、の地区だった。
実際、小さい頃は肝試しして遊んだ。
ただ、明治ごろに、「神社の前の道で、子供が牛車に轢かれて死んだ」
「伝染病で死人がよく出た」という言い伝えを祖父から聞かされたことはあった。
そういえば。今思い出した。
小川から長島に下る坂。
昔、高野聖が不案内から道に迷い、山中で一夜を明かそうとしたが、
オオカミに喰い殺された。その屍と、傍らにあった経巻を郷人が焼いたところ、
灰は風に吹かれ幾多の雀と化し、この山に群がるようになった。
土地の者が付近に焼き畑を作付けすると、群雀に食い尽くされるという。
どういう理由か判らないが、犬間で鶏を生き埋めにした。
それ以来、その場所を夜に通ると鶏の鳴き声が必ずするので、
恐れられている。
以上、昭和44年発行の本より。
森と云っても直径20mほどで、雑木や雑草が生い茂っている。
その昔は天狗が住んでいて、夜になると時々怒って、木を嵐の如く
揺らしたという。また、ある者が森に茂っていた草を刈って持ち帰る途中、僧に
「その草は森へ返せ。後の祟りがひどい。」
と言われた。気に止めずに持ち帰ったところ、その年より
不幸な生活を送るようになった。
住民は今でも祟りを恐れ、そばを通るのも気味が悪いという。
昭和33年発行の本より。
置き餌しておきますね。
静岡県相良町 黒子「翁橋」
蛭ヶ谷川に架かるが、この橋の付近では「ぢんぢん川」と呼んだ。
狐狸か妖怪か判らないが、夏の夜などに
みすぼらしい身なりの老人が現れたり、川土手の草が綺麗に刈り取られていたり、
痩せ細り青白い顔をした怪物が、もの凄い形相で研ぎ澄ました鎌を持って
現れたりした。
老人→じじい→ぢんぢん とのこと。
爺さんは濡れ衣のような気もしますが。
丸尾原へ上る御相談坂の登り口に、小さな橋がある。
手前を左に行くと子生れ石、橋を渡り右に行くと、田がある。
この田を作ると、何かしら禍があるというので嫌われている。
この田は昔、字 原平に住んでいた万法印と呼ばれる法師のものであった。
彼は土地への執着が強かったゆえ、縁もない者に耕されるのが無念で
祟るのであろうということである。
現在は、地主が耕している。
以上、昭和44年発行の本より。
三尾の集落に入る左手前、道路と四郷川の間の一段低いところに
10坪ほどの平地があり、以前より「まのはら」と呼ばれていたとの事。
今から30年ほど前に、その場所に製材所を建てた人がいましたが、その後
その人の一家には変死者が相次ぎ、最後には全員が死に絶えたと聞いています。
ちなみに、今現在製材所は廃墟と化してますが、街灯がほとんど無い場所なので
夜に横を通ると雰囲気たっぷりです(;´Д`)
なお、川を挟んだ対岸の崖の上には鉱山の坑道が残っていますが、かつては
その坑道の中で幽霊が出没したという噂も聞いています。
近代的ニュータウンが広がるおゆみ野・ちはら台であるが
昔はうっそうとした山野だった
その昔、落ち武者がこの地でつかまり首を切られたという
この塚の近くに沼田があったが、これを耕すものは家が絶えるといわれていた
昭和30年ごろ、この沼田を耕していた家があったが、怪死する者が続いたため
所有者は耕作を放棄したという
ニュータウン開発が始まるまでは荒れるに任せており、薄気味悪い祠があったという
現在はニュータウン開発に伴い、場所がわからなくなっているが、
鎌取駅のやや北にあったそうだ
ショーエモンというのは天保年間実在した人の名前という
昔、この田はある一家が耕作していたが、流行病で娘をのぞき全滅してしまった
欲深いショーエモンはこの娘を言いくるめてこの田を取り上げた
将来を悲観した娘は気が触れて行方不明になったという
この後、ショーエモンの一家では怪死する者が続き、絶えてしまった
これ以後も、この田を耕作する者は一家全滅などの目にあったという
おゆみ野・ちはら台開発に伴い田のはっきりした所在地は不明だが
○○公園のぬかるんだ池近くだといい
古くから住む住民はこの地を忌み嫌っている
下○療養所がある岡ににあったという小道
由来はわからないが、夜この道を通ると悪い物に憑かれるとか
この筋に家を建てるとよくないことが起こるという
戦後某家がこの付近に家を構えたが
商売に失敗するなどし、結局一家離散の憂き目にあったそうだ
千葉東金道路を横断するように走っている道のことだというが
誉田駅付近にあったともいう
この付近の耕地は区画整理され整然としているが
この田の近くだけ手をつけれずに残っている
ある人がこの田の近くで自害したといわれ
以後この田を耕作する者は病にかかったといわれている
市原市五井よりでる小湊鉄道が建設されたとき
予定ではこの田を通っていく予定であったが
因縁を知って急遽建設予定が変更になったというはなしがある
昔、この田は池でありやくしん池と呼んでいた
この池の近くに薬師堂があったのでやくしん池と呼ばれたという
明治初期、ある一家がT氏に土地をだまし取られて、この池に身を投げて死んでしまった
以後、この池は縁起が悪いとされ、この池の水を使って耕作するとたたりがあるといい
忌み嫌われていた
戦後、区画整理でこの池はつぶされ田んぼになったが
やくしん田と呼ばれ、この田を耕せばたたられるという
現在はこの一角だけ荒れ地になっており 所有者は耕作を放棄しているようだ
T氏は実在の人物であり、戦前は地主として権勢をふるってきたが
戦後の農地解放で没落した
この一家の子孫は結局変死や自殺が続き、絶えてしまったが
「やくしん田のたたりだ」と噂されたという
昔、この田は池でありやくしん池と呼んでいた
この池の近くに薬師堂があったのでやくしん池と呼ばれたという
明治初期、ある一家がT氏に土地をだまし取られて、この池に身を投げて死んでしまった
以後、この池は縁起が悪いとされ、この池の水を使って耕作するとたたりがあるといい
忌み嫌われていた
戦後、区画整理でこの池はつぶされ田んぼになったが
やくしん田と呼ばれ、この田を耕せばたたられるという
現在はこの一角だけ荒れ地になっており 所有者は耕作を放棄しているようだ
T氏は実在の人物であり、戦前は地主として権勢をふるってきたが
戦後の農地解放で没落した
この一家の子孫は結局変死や自殺が続き、絶えてしまったが
「やくしん田のたたりだ」と噂されたという
昔、この田は池でありやくしん池と呼んでいた
この池の近くに薬師堂があったのでやくしん池と呼ばれたという
明治初期、ある一家がT氏に土地をだまし取られて、この池に身を投げて死んでしまった
以後、この池は縁起が悪いとされ、この池の水を使って耕作するとたたりがあるといい
忌み嫌われていた
戦後、区画整理でこの池はつぶされ田んぼになったが
やくしん田と呼ばれ、この田を耕せばたたられるという
現在はこの一角だけ荒れ地になっており 所有者は耕作を放棄しているようだ
T氏は実在の人物であり、戦前は地主として権勢をふるってきたが
戦後の農地解放で没落した
この一家の子孫は結局変死や自殺が続き、絶えてしまったが
「やくしん田のたたりだ」と噂されたという
昔、この田は池でありやくしん池と呼んでいた
この池の近くに薬師堂があったのでやくしん池と呼ばれたという
明治初期、ある一家がT氏に土地をだまし取られて、この池に身を投げて死んでしまった
以後、この池は縁起が悪いとされ、この池の水を使って耕作するとたたりがあるといい
忌み嫌われていた
戦後、区画整理でこの池はつぶされ田んぼになったが
やくしん田と呼ばれ、この田を耕せばたたられるという
現在はこの一角だけ荒れ地になっており 所有者は耕作を放棄しているようだ
T氏は実在の人物であり、戦前は地主として権勢をふるってきたが
戦後の農地解放で没落した
この一家の子孫は結局変死や自殺が続き、絶えてしまったが
「やくしん田のたたりだ」と噂されたという
某住宅地付近の、竹藪の生い茂る小山のことをこう呼ぶ
江戸時代末期に、この藪である人が斬り殺された
以後、雨の降る夜にこの藪を通ると怪異に遭うとか
この藪の竹を使うと親の死に目にあえないといって
嫌われている
また、この藪の所有者は早死にするといい
所有者も転々と変わっている
藪の中に朽ちた祠があり、現在も所有者が年一回お参りをしている
あるニュータウンの近くにぽつんとある集落ことを指す地名
現在はきちんとした地名がつけられているが
地元民はこの集落を六部○○と呼び、嫌っている
はての二十日(12月20日)に六部がある家に泊まったが
多額の金銭を持っていたので、この六部を殺してしまった
この一家が住んでいるのがこの集落で、周囲の者は付き合いを絶っていた
この集落の者は、正月に餅をつくと真っ赤に染まるといい
今でも餅をつかないという
*いんちきには、いわゆる部落差別を行う意図は全くありません
プライバシーの問題があると思うので、多くを伏せ字にしました
いん田というのは忌み田のことだろう
ある親子が言い争いをして、子が親を鎌で殺して
この田に遺体を投げ込んだ
以後、この田を作る者は祟られるといい、村の共同所有地になったが
それでもこの田を作る者はいなかった
区画整理で、現在は正確な場所はわからない
小櫃川に昔かかっていたといわれた橋
ある人が酔ってこの橋から落ち、溺死してしまった
その後、夜通ると憑かれるといい、
結婚の列がこの橋を通ると別れ、葬式が通ると家族にも死人がでたといい
忌み嫌われた
現在この橋はすでにないが、橋の後は残っており
地元の人は冠婚葬祭時、この橋付近を避ける
ご多分に漏れず?ある新興住宅地付内の窪地
現在はグラウンドとして使われている
三郎という人が隣人との諍いの末殺され
この窪地に死体が捨てられた
以後、この窪地は縁起が悪いとされ、放置されていた
高度成長期にデベロッパーが地元の業者を使いこの付近を開発した際
地元の業者は、この地だけは手をつけるなといっったという
窪地で、近くに調整池があるためか夏場は特にむしむしするこの地を
地元の人は嫌っている
名前やいわれははっきりしない
この田の所有権を巡って兄弟が争った末、弟が兄を殺したという言い伝えがある
269とは別のところ
この田も、名前やいわれははっきりしない
この田の近くにあれた岡があり、昔は塚だったという
坂口の家が3軒になったらこの塚を掘ってみよ、骨がでるから という言い伝えがある
この田を耕す者は早死にするという
交差点近くのコンビニの横の田んぼのこと
> 大抵は廃墟になってるんで、むやみにコワイ場所
北海道のタコなんぞ有名ですなあ。いわゆるタコ部屋の語源だったり……。
むやみにコワイんじゃなくて、本当に非人道的な行為が繰り広げられました。
「タコ労働者」 で検索をかけてみてください。
牧ノ原は、「布引の原」という別名を持つ。
昔、相良のお菊という娘が、金谷の大工と恋仲になった。彼女は夜ごとに
牧ノ原を越え、男の元へと通ったが、当時は原野であった牧ノ原は物騒でもあり、
やはり恐ろしかった。そこで、頭の上に糸枠を載せ、鏡とロウソクを立て、
白い着物を着、白布1反を引いて歩いた。怪物を装えば、盗賊などは近づかないと
思ったのである。
ところが、化け物の噂は腕自慢の者達を呼び寄せる結果となり、お菊は肝試しに
来ていた一人に斬り殺されてしまう。
彼女の殺された場所を「お菊沢」と呼び、祟りがあるといって恐れた。
太平洋戦争の直前、牧ノ原に海軍の航空隊が配置され、営舎が建設されることと
なったが、沢の周辺で事故が相次ぐので、お菊の祟りであろうと噂が立った。
沢の土を、大沢原の西光寺に運んで供養をしたそうで、地蔵尊が残っているとのこと。
昭和44年発行の本より。
る胞衣(エナ)を、壷に入れて土に埋める、そしてその所に松を植えた
とした、ちょっとした塚というか山に、何らかの碑なり、信仰的な要素
が、あってもおかしくないだろうか?その辺の周辺をご教授願いたい!
エナを埋めた場所を特別視するのは、べつに貴族だけじゃなくて日本全国庶民の間で普通でしょ?
現在、どのくらい残っているかはわかんないけど
香川用水が出きるまで讃岐は水不足に悩ませられる地であった。
特有の瀬戸内海気候のため、乾燥し、夏場はいつも水が不足していた。
水不足を補うため、隅々に溜池と掘割が作られた。
しかし、溜池の水では全ての田を潤すことは限界であり、
そのため溜池の水を巡って争いがあった。
讃岐には水に関し様々な伝承があり、それに伴い忌まれる地もまた多い。
M町の「まがつ田」もそのひとつである。
M家とI家が水のことで争い、M家のものがI家のものを殺し、その死体をこの田に投げ入れた。
下手人であるM家のものは、同じM町で磔にされた。
以後、この田は「まがつ田」と呼ばれ、所有者であるI家は耕作を放棄した。
この田を耕すものは熱病で死ぬと言われた。
大正時代にある政治家が所有し、耕作したが良くないことが続いた。
現在は荒地となっていて、所有者が立てた祠があるだけである。
農地改良事業の際にも、「あそこにはふれてはいけない」という意見が多く、
その土地には手を加えられず、今でも荒地として残っている。
出典:http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/min/1062292997/