その山で鏡を見てはいけない
めったに山から降りてこなくて、なんの仕事をしていたのか分からない。
オナガっていうのもどんな字か知らないし、もしかしたらオオナガだったかもしれない。
俺と友だちで、オナガさんの山小屋に遊びに行ったことがある。
その時、俺は「どうしてこんなところに住んでいるのか?」って意味のことを聞いた。
その時の話がスゲエ怖くて、しばらくは夜一人で寝れなかった。
オナガさんは、ちょっと前まで普通の家に住んでた。
家はちょっとした山持ちで、代々受け継いだ山がいくつかある。
そのうちの一つに、妙な言い伝えがあった。
「その山で鏡を見てはいけない」
いかにも、いわくありげな口伝だったが、
オナガさんは親父さんや山守をしている飯橋のじいさんに聞いたらしい。
ある時、その山の奥で木を切ることになって、
飯橋じいさんの孫でトシカズって人が、そこまで道を通すことになった。
土建屋で借りて来たパワーショベルで山を切り開いて道にしていく。
その日、オナガさんは作業の様子を見に行った。
ちょうど例の山に差し掛かっていたらしい。
パワーショベルに乗っていたトシカズさんが、急に作業の手を止めた。
怪訝な顔でバックミラーを覗いている。
「…どないした?」
オナガさんが近付くと、トシカズさんはミラーを指差して言った。
「や、ここにね、何か変なモンが写っとるんですよ」
オナガさんがミラーを見ると、自分とトシカズさんの背後にポツンと白い点があった。
ジッと見つめいていると、僅かに動いている。
振り向いたが、近くにそんなモノは見当たらない。
「さっきから、ちょっとずつ近付いとるみたいなんですわ…」
気味が悪かったので、その日はそこで作業を切り上げ、二人で飲みに行った。
あきらかに何かに怯えている。
オナガさんも気付いていた。
家でも外でも、鏡を覗くたびに背後に見える白い点。
「あいつどんどん近付いてくるんですわ」
近付くにつれ、オナガさんにもソイツの姿がハッキリと見えてきた。
胎児のように白い皮膚、短い手足。
丸い頭には、切り裂いたかのように大きな口だけがついている。
見ためは人の口。まったく血の気のない白い唇がしっかりと閉じられている。
トシカズさんは、もう作業ができないくらい精神的に参っていた。
「もう、すぐ後ろにおる…」
数日後、トシカズさんが閉じ篭った自宅の部屋で死んでいるのが見つかった。
後頭部に一口大の穴が開いていて、脳みそが全部無くなっていた。
「トシカズはあいつにやられたんや。あいつがおるのは鏡の中だけやない。
ガラスや光る物にも写る。見るたびにどんどん近付いてくる…」
「せやから、俺はこんな山小屋に住んでいるんや」
山小屋には、ガラスや光沢のある金物など、何かが写り込むようなものは何もなかった。
「…それでも、時々水面とかを見てしまうことがある。俺、もう半分食われとるんや。
こないだ、とうとう口を開けよった。米粒みたいな歯がびっしり並んどったわ」
そう言ってオナガさんは腕まくりをして見せた。
手首の辺りに、細かい点の並んだ歯型があった。
それからしばらくして、オナガさんが死んだ、と聞いた。
死に様は分からなかった。
寝れない夜が、またしばらく続いた。