今日は窓を開けない方がいい
彼はまだ若い身空で、温泉巡りを趣味としている。
独身の特権なのか、思い立つとすぐに荷物をまとめ、単身出かけるのだそうだ。
以前、あまり人が来ない山奥の湯治場に出かけた時のこと。
小さな宿が二つしかないような、寂れた所だったらしい。
一つ目の宿で不幸があったと言って断られ、仕方なくもう一つの宿に向かう。
そこでもなぜか宿泊を渋られたのだが、主人に頼み込み、半ば強引に上がり込んだ。
彼は宿の大きさなど気にはしないが、しかしその宿は少し変わっていた。
どの部屋も雨戸がすべて閉め切られていた。ご丁寧に芯張り棒まで噛ましてある。
彼が雨戸をいじっていると、やって来た仲居さんが奇妙なことを言う。
「今日は窓を開けない方がいいですよぅ」
尋ねても、理由は教えてくれない。
そうは言われても、晩夏でまだ蒸し暑く、彼は強引に雨戸を全開にして寝たという。
夜半、寝苦しくて目が覚めた。空気がひどく澱んでいて、重い。
扇風機にあたりながらまどろんでいると、おかしな物音が聞こえてきた。
ズルズルと何か引きずるような音が、窓の外から響いている。
呆っと窓の方を見ていると、やがて異様な物が姿を現した。
瓜実形の大きな女性の顔だった。
まるで平安時代の女性絵を連想したと彼は言う。
遠慮の無い様子で、部屋の中を覗き込んできた。
大きすぎて窓から顔の全体が見えず、眉毛から口元までが辛うじて見えた。
大顔は、彼としばらく見つめ合うと、興味を無くしたかのようにぷいっと横を向き、
またズルズルと音を立てながら視界から外れていく。
少ししゃんとした彼は、雨戸をしっかりと閉めてから寝入ったそうだ。
不思議なことに、もう寝苦しさは感じなかった。
次の日、すべての部屋の雨戸が開け放たれた。
主人や仲居さんに昨夜の物について聞いてみたかったが、教えてくれないだろうなと
いう気がなぜかしたので、尋ねそびれた。
三日ほど滞在したが、顔が出たのはその晩だけだった。
帰り際、主人が頼んでもいない土産物を持たせてくれた。
「あんたは度胸がある」そう言って主人は上機嫌だったという。
でもやはり、詳しいことは何も教えてはもらえなかった。