見るな!
 小学生の頃、父親と二人で山道を下っていた。 
 霧が出ていたので、互いに手を繋いで足元を見ながら歩く。 
 と…ふいに父親の手に力が籠った。 
 「お父さん、痛いよ」 
 そう言って顔を上げた。 
 父親は前方を睨んだまま険しい表情を浮かべている。 
 その視線の先を追うと、霧の中にぼんやりと小さな人影が見えた。 
 「見るな!」 
 突然、父親が大声で吠えた。「目を瞑れ!儂がいいと言うまで絶対に開くな!」 
 只事でない剣幕に、慌てて目を瞑る。 
 そのまま、父親に引き摺られるように歩き続けた。 
 ジャリッ…ジャリッ… 
 足音が二人の横を通り過ぎる際、小さく呟く声が聞こえた。 
 「ナンマンダブナンマンダブ…」 
 それから20年あまりの月日が経ったある日 
 久しぶりに父親と酒を酌み交わしていて、あの時のことを思い出した。 
 「あの人影、誰だったんだ?」 
 父親はしばらく黙っていたが、やがて渋々といった様子で呟いた。 
 「お前だった」 
 それっきり何も言わず、父親はコップ酒をあおった。